ソープランド・風俗街に関しての情報サイト

ディック

風俗街とは?

ウィキペディア  ウィキペディア

風俗街全国1千カ所以上!?

 

この記事の正確さについては疑問が提出されているか、あるいは議論中です。
詳しくはノートを参照してください。

 

この項目には性的な表現や記述が含まれます
ウィキペディアは未成年者を保護するための検閲をしていません。
閲覧はご自身の責任で行ってください。免責事項もお読みください。

 


全国1千カ所以上!? “公認”だった風俗街「赤線地帯」があった…



 社会風俗・民俗、放浪芸に造詣が深い、朝日新聞編集委員の小泉信一氏が、正統な歴史書に出てこない昭和史を大衆の視点からひもとく。今回は「赤線」。

*  *  *
 先週の主題は「青」(ブルーフィルム)だったが、今週は「赤」。青は映像だったが、赤はリアルだ。そして、青は非公認だったが、赤は事実上の“公認”だった。1946年の公娼制度廃止以後も存在できたのである。

 溝口健二監督の映画「赤線地帯」をご存じだろうか。舞台は警察の地図に赤線で囲まれたといわれる特殊歓楽街。江戸時代から続いた吉原遊郭の「夢の里」を描いた作品である。

「本当にお前たちのことを心配しているのは俺たち業者だ。こうやって店を作って商売させてるから、お前たちは食うのに困らないし、一家心中だってせずにすむんだ」と経営者が言う。さまざまな事情や過去を抱え、借金を背負った女たちが「夢の里」で働いている。戦後の貧しさが暗い影を落としていた。

 映画の公開は昭和31(1956)年3月。当時の時代背景について、吉原の旧赤線地帯で暮らしていた風俗ライター、吉村平吉さんはこう語っていた。

「赤線の線を戦にひっかけて『線中・線後』という世代分けがはやったこともありましたが、江戸の廓を思わせる風情がまだ吉原にはありました。ですが、そこは東京の谷間。明るいか、暗いかは見る人によって判断が異なりました。良かれあしかれ、この街にしか宿れなかった貧しい娘さんたちがいたのも、歴史の事実です」

 だが、昭和33年4月1日の売春防止法完全施行をもって、赤線の灯はひっそりと消えたのである。5万人以上の女性が「職」を失ったといわれている。

 その昭和33年とは、どんな年だったのか。

 2月に日劇ウエスタンカーニバルが始まってロカビリー旋風が吹き荒れ、4月には長嶋茂雄がプロ野球にデビュー。12月には東京タワーが開業した。電気洗濯機、電気冷蔵庫、白黒テレビがもてはやされ、「三種の神器」と呼ばれた。敗戦による混乱も落ち着き、衣食住の不自由もなくなった。米国の生活様式をモデルにした「生活合理化」への意欲が高まっていた。

 話を「赤線」に戻す。戦後風俗史に詳しいフリーライター、木村聡さんによると、戦後の混乱期、大衆のガス抜きの目的もあり、娼婦を集める必要性を半ば感じた日本政府はGHQの了承を取り付け、“公娼”地帯を定めることになった。その俗称が「赤線」だ。冒頭に書いたように、地図の上で営業許可区域を赤い線で囲ったことが名前の由来になったと言われているが、確証はない。

 厚生省公衆衛生局(当時)の調査によると、昭和30年代初めには、赤線地帯は全国1千カ所以上あり、店の総数も1万5千軒はあったとされる。何ともすごい数である。そこから得られる税収も、バカにはできなかったはずだ。


ただし、赤線の業者に対しては、1.前借金制度の廃止2.身体その他の自由を拘束する行為の禁止3.搾取の禁止──の3点について、指導を徹底された。人身売買のような前時代的な行為は禁じられたのである。

 木村さんが書いた『消えた赤線放浪記』(ミリオン出版)には、こんなことが書いてあった。

〈戦後になってつくられた赤線の建物は、建前上の業種がカフェーや喫茶店といった飲食店だったために、急造ながら明るい洋風の外観をたずさえていることが多かった〉

 従来型の陰湿で閉鎖的な遊郭というイメージとは異なり、戦後の開放的な風俗としてとらえられていた赤線もあったようである。

 同書をひもとき、赤線のいくつかを紹介する。

・北海道・釧路……南はずれにあたる米町(よねまち)。店の数は三十数軒。木造2階建ての妓楼が軒を連ねる遊郭時代からの街並みがそのまま残っていた。いまは住宅地になっているという。
・青森・第三新興街……青森駅のすぐ近く。地元ではピンクサロン街として知られ、いまも小料理屋やバーが数軒並ぶ。往時を思いながら、雪深い季節に、石川さゆりの「津軽海峡・冬景色」を歌いながら歩くと気分が出るのでは。
・横浜・黄金町……大岡川と京浜急行のガード下に沿った極端に細長い町。終戦後に住宅として使われ、次第に飲食店が増え、女性が客を引く店も現れた。いわゆる「ちょんの間」。地域住民らの環境改善運動もあり、2000年代に“浄化”された。

 このほか、名古屋・中村、大阪・飛田新地、京都・五条楽園など日本列島の各地に赤線はあった。

 私が地元の人から聞いて印象に残っているのは(もちろん時代が違うので、行ったことはない)、東京都江戸川区の小岩にあった「東京パレス」である。時計工場の女性労働者の宿舎を買収。終戦の年の秋、進駐軍向けに建てられた。家族を養うために身を売る戦争未亡人たちが流れてきたそうである。小川が流れ、裏の田んぼからはカエルの声が聞こえたが、夜は人間の欲望渦巻く不夜城に一変。ドルで財布を膨らませた外国人は、日本人の何倍もの料金を取られたという。

 いまや「赤線」という言葉自体、死語かもしれない。往時茫々。飲食店の形を取りつつも、女性と同伴できるなど、あの手この手で続いているところもあるというが、実際はどうなっているのだろう? 古風なピンクサロンの看板も、街角の電柱にはってあったストリップ小屋のポスターも、いまでは見かけることがほとんどなくなった。「昭和」という時代が懐かしい。

【PR】

WEBサイトの効率が上がる真のSEO対策/タイのバンコクでも成功します

大阪 タイ SEO対策 バンコク serps対策

http://www.seo-serps.com/results.html

GoTop